人間は「悲しい存在」である、という事実を乗り越えた者だけが。

~ 『ヘヴンズ ストーリー』に寄せて

中原昌也
(作家・Hair Stylistics)

人間とは悲しい存在である。

余裕があった頃は、まだそれを誤摩化す手段が沢山あったのかもしれない…残念ながら、もうその時代には戻れない。誰もが無邪気だった、あの頃は遠い過去だ。

いまでは誰もが忘れているノストラダムスの大予言のせいかどうかわからないが、我々はいつかカタストロフがやってきて、すべてが劇的に終わってしまうものだと考えてきた。だが、そんなロマンがあったのはまだ幸せな時代だった…現実はもっと残酷だ。すでに文明や社会など、最初からありもしない神なども、とっくにその役目を放棄し、「自己責任」の名の元、自分さえよければという世界に、ただ何となく我々は放置されている。インターネットなどに代表されるようなうわべだけの虚しいだけの関係にすり替えられてしまった、愛などと呼ばれる生身の絆など信じていては生きていけない時代になり、人間はさらに孤独になったのだ。

人間が本質的に「悲しい存在」である事実を、現代に生きる我々は以前にも増して感じる機会が増えている。それによって世の中がさらに荒んだ、というよりも、前にも増して世界が空洞化した、と称する方が正しいような気がする。ゾンビ映画などに頼ることなく、この世界はゾンビに満たされたのだ。

善人も悪人もいない。そして勝者も敗者も、その審判を司る神すらもいない。この世界にはただ「悲しい存在」である人間がいるだけだ、という事実を、瀬々監督は度々犯罪映画という形式を借りて伝えてきたように思う。

人を殺めた経験のない者に命の重さなどを語る資格はない…と言わんばかりの悲壮感しかなかった瀬々作品の登場人物たちが、この新作『ヘヴンズ ストーリー』においては、生や死を超えて、やがて来る新しい時代についてを語ろうとしているのを、我々は聞き逃してはならない。2000年からの10年間に渡って、様々な登場人物によって多層に語られる彷徨いは、あくまでもピンク映画からキャリアをスタートさせた監督らしいプログラムピクチャー的な側面(あくまでもエロ映画であり、現実に基づく事件を扱った、というだけで、監督の作品は最初からどれも軽くなかったが)からは、想像がつかないほどの、さらなる重さを持っているが、その反面、監督自身が目指していると語っていた「自主映画」的な、悪い意味での内省も、デジタル撮影などの技術によってもあるのだろうが、簡単に超えてしまっている。すでにメジャーな大作を何度も経験している瀬々監督だが、そのキャリアが信じられないほどの繊細な瑞々しさが、この集大成と呼ぶべき『ヘヴンズ ストーリー』には漲っている。これは以前の瀬々作品とは明らかに異なった、多様性を獲得するに至っているのではないか。

自分だけでなく他者の痛みも知り、「悲しい存在」である事実を乗り越えた者しか、新しい時代の幸福を想像できない。そして、そこからしか、もはや未来への希望は生まれてこない…現状批判としての映画が、現実の歪みを提示するに留まることや、純粋なファンタジーに浸るだけでしかなかったのだが、それがいま確実に新たな局面を迎えたのだ。

「自分が死んだ後も、この世界はずっと続く…でもそこに私はいない。そこから続いていく世界を見ることができない」と登場人物の一人が絶望の中で言う。その答えになるかどうかわからないけれど、映画だけが、人間が実際に生き、そして本当に感じた喜びや悲しみを現実に刻み付け、それを時代や国境を超えて他者に伝えるために永遠に存在し続けるものであるのを、『ヘヴンズ ストーリー』を観て再認識した。このような映画が撮られていく限り、人間も(「悲しい存在」のままかもしれないけれど)生き長らえていくと思う。瀬々監督、ありがとう。