―― この映画をつくろうと思ったきっかけから教えてください。
2006年の初頭から企画を始めました。まず自主制作的な作りで映画を作りたいと思ったのが理由の一つです。高校生のときから8ミリで映画を作り始め、いつのまにか職業としての映画監督になり、いろいろな形でいろいろな人と関わるプロの環境の中で映画を作ってきたのですが、それはそれで意味のある作業だったとは思いますが、もう一回、初心に戻るようなことをしたいなと思ったんです。16年ほど映画を作り続け、ある行き詰まりみたいなものを感じていた時期であったかも知れません。それで、知り合いの井土紀州(監督・脚本家)や『YUMENO』という作品を作った鎌田義孝監督やら自主制作体制で映画を作った人たちの話を聞いたりもしました。自主映画体制で一つの映画を作る。通常、こういう内容の作品を作りたいから製作会社を回ったが断られ自主制作で作るということがあると思うのですが、これは最初から自分たちで作るんだというところから始まりました。
もう一つはずっと自分のライフワークのように取り組んできた普通の人々の「殺す、殺される」という事件と、それに関わる人々の人生みたいなものを2000年に入って5年が過ぎたその頃、また描きたいと思ったということがあります。
このテーマは何回も何回も取り組んできましたが何度取り組んでも自分の中で決着がつかない。どうしてもその時代の社会による影響が大きい問題なので、そのつど新しい発見があるとずっと思ってきました。90年代は隣の殺人者という感じで自分の隣人のような普通の人も犯罪に関わるのだという視点で描こうとしていたんですが2000年頃から、それではいけない、もっと当事者性として自分自身が「殺す、殺される」に関わる可能性があるのだという感じで取り組むように大きく変化したとも思っています。そんな当事者としての発想の中で「私たちはどこから来て、どこへ行くのか」というような大きなテーマとして描けないかと。自分たちが今まで生きてきた現実と描いてきた映画に落とし前を付けたかった。という言い方になるのかもしれません。
―― 全9章、4時間38分と驚異的な長尺ですが、そうした理由は何ですか?
2008年に撮影に入るときの印刷台本は170ページありました。通常で考えると3時間の尺です。ですから、それくらいにはなるだろうとは思っていました。結局撮影していく中で膨らみ、差込の脚本が入り、どんどん厚くなって、今の時間になってしまいました。「殺す、殺される」とういのはさっきも言ったように自分が何度も取り組んできた主題で、そのたびに何か分かったかのように思っても、現実はどんどんその先に進んでいく。そんな感じをずっと思っていた。今回は行くところまで行こうと思っていたのが大きいと思います。その主題を中心にそこに関わる人々の人生を描ききる。「殺す、殺される」が復讐ということだけに収まり終わらせることなく、もっと先に進む。それを目指したというのがあります。人物の相関関係に表れる地理的な世界観も広く、時間的なスパンも長く、そんな大きな物語に取り組み、語りきろうと、まず、そういう思いがありました。
―― 最初から、1年にわたって四季を映そうという考えはあったのですか?
四季は描きたかったです。暑さや冷たさ、春の心地よさ、秋の寂しさ。そういうものが俳優に与える力は大きいものがあるし、映像的にも現実の空気感は作りものでそれらしく見せた季節感とは限りなく違うと思うからです。もちろん、これは自主映画な作りだから許されるわがままだとも思ってやったところはあります。あと、主題は「殺す、殺される」だとさっき言いましたが、そういうことも普通の生活の横にゴロンと転がっているのが今の現実だというのがあるんです。自分たちの生活は普通に続き、時間は流れ、楽しいこともあって、家族や、友人や男女や、そんな中に喧嘩があったり仲直りしたり、そういう生きていく中での、あー、今この瞬間だ、というのを描きたかった。だから桜の花見やクリスマス、本当に普通の生活の輝きを描きたかったというのがあって四季は絶対に必要だったんです。
―― 脚本の佐藤有記さんとの共同作業は、どのようにすすめられたのですか?
最初のプロットは自分で作りました。ただラストシーンをどうするかはまだ良い案がなかった。このプロットを渡して一章出来たら2万円取っ払いで払うからと、この時点で自主映画ですから、安く作ってもらったわけです。第一稿が出来たのは早かったですが、直しは何回もしました。撮影も一年半ありますから、一期撮影が終わって編集して、その反省点を生かすため、次の期の脚本を変えていくというような作業の連続だったと思います。
―― 山崎ハコさんは、これが初の本格的な映画出演になりますが、キャスティングの理由は?
僕が中学、高校の頃から大ファンだったというのがまずあります。同じ大分県出身で自分が中学生のときにハコさんがデビューした。高校生のときに初めて作った8ミリ映画には彼女の「飛・び・ま・す」という曲を、もちろん勝手にですが、つけたほどです。最初はいわゆる女優さんで誰かいないかなと考えたのですが、ふと、思いついたんですね、ハコさんのことを。それで阿佐ヶ谷に「あるぽらん」という知り合いの飲み屋があるんですが、ここでハコさんがたまにライブをやっていたのを知っていたのでマスターに連絡先を聞いて会いました。青山の方のカフェで二人で会ったのですが、緊張しました。長年のファンですから。でハコさんは勿論こういった形での出演は初めてだったんですが、脚本を渡して読んでくださいと。ただ「何かやることになる気はします」と笑顔で言ってくれたのが印象的でした。
―― 「雲上の楽園」である廃虚、渡し船で着く団地など、非常に印象的なロケーションです。
渡し舟はずっと昔にNHKの「新日本紀行」という番組で見たことがあったんです。浦賀にあって、その頃はまだ木造の味のある船でした。ここの設定は脚本上は長い間バス停にしていたんですが、ロケハンに行き、渡し舟の設定に変えました。近くに「カモメ団地」というのが実際にあって海辺の団地なんです。それと茨城の高萩市にある、これも海辺にある団地を組み合わせて、主人公たちが住んでいる団地周りは撮影しています。渡し舟に乗って自転車でたどり着いた団地。“果て”感のようなものがここの風景にある気がしたんですね。地上なんだけど海に面していて誰も寄せ付けないような。それに高萩の団地の背景には工場の高い煙突が見えます。これが空にも繋がっているような印象を与えてくれたんです。海に面した果てで、そこから空にも繋がる。自分たちが描きたいと思っていた映画の感じがここの風景を見た時これだ、と思わせてくれたのがありました。「雲上の楽園」は実際にそう呼ばれていた鉱山廃墟で2000年に「NONFIX」というテレビドキュメンタリー番組の演出をやったときに日本中の廃墟を回ったんですが、その時、最も強烈な印象が残っていた場所です。いつかこの場所で映画を撮りたい、そう思ってたのが、今回実現しました。歴史や、実際ここに住んでいた人々の感覚が残っている気にさせる場所。今回はある意味低予算の映画ですから、そういう風景的なものから貰ってくる力というのは非常に大きいと思ううので、ロケーションの場所については拘って撮影しました。
―― タイトルにこめた意味は?
ヘヴンを、西洋的なキリスト教の一神教で考えると、この映画はちょっと違うような気がするんです。もっと東洋的というか、人間を含めて、動物、植物、大きく言ったら宇宙とかまで含めて森羅万象な生きとし生けるもの全てが絡まりあう曼荼羅のような世界観で映画を作りたいという思いがありました。復讐が許されるか、許されないかというような審判的な結論よりも、さらにそれを超える世界観と物語を描きたかった。ですから復讐の物語が終わり、その後を描いた9章目が僕にとってはとても大事でした。皆がゴールと考える先を見たい、描きたい。現実の事件の関係者は今そこで生きてるはずだし、僕たちの生というのも、そういうものじゃないかと思うからです。だからヒロインである少女が生き続けることを決意する第9章のタイトル『ヘブンズ ストーリー』がこの映画、全部のタイトルなんです。
